第08話  「幻の黒鯛の渡り 其の2」    平成25年02月02日 

 今では全く幻となってしまった黒鯛の渡りだが、40年位前迄は、晩秋の風物詩のように語りつがれていたものだ。
 その黒鯛の渡りとは何か?
 晩秋になると男鹿以南の多くの黒鯛が群れとなって暖かい南の海の深み(新潟県の県境付近)に向かって海岸線を渡って行くとまことしやかに信じられていた。これは遠く江戸時代の頃からの説で、極く最近まで百年以上にもなる。江戸時代末期頃篠小鯛が釣れなくなったのは、鳥海山の爆発で象潟の澗が、陸化したからと云う説があった。又昭和30年代に至っては、秋田の男鹿半島の汐が入る大きな湖八郎潟の干拓のせいで黒鯛の渡りが少なくなったと云う話があった。

 海が時化たりすると黒鯛の当歳魚、二、三歳ものそれ以上の大物等が大挙して何千、何万と云う大きな群れとなって数日の間、澗(ま=大きな湾や港)に入って来て大釣れすると云う現象を渡が入って来たと云う。それ以外学者でもない、素人の釣り人達はどのように説明出来るのだろうか?
 村上龍男氏はその著書「思い出語り・庄内の磯釣り」の中で昭和378年当時のシノコデ(篠小鯛)の渡りがあり、それが最後だったと書いている。当時は暖かい冬の南の海に数千から数万と云う数の黒鯛の群れが越冬の為に移動すると云う現象として渡りと説明されていた。不思議なのは群れで北から南に移動したと云う現象は、ここ庄内でしか報告されていない事である。
 村上龍男氏は、黒鯛の渡りがなくなったと云う事について山大農学部の出身らしく科学者の目線でこの現象を説明している。それはその当時水田に使われていた有機水銀系の除草剤のせいではないかと云う説を提案している。この頃に田圃に数多く生息していたイナゴ、ホタルその他の虫が一斉に姿を消している。田圃の堰に住んでした筈のドジョウやナマズ、鮒等も一緒に姿を消していたのもこの頃であった。
 海に流れ込んだ除草剤は植物プランクトンや動物プランクトンを大量に殺してしまったとしている。これらを餌にしている動物は当然少なくなってしまう。荘内浜の生態系を破壊してしまった事から、黒鯛の渡りもなくなってしまったのではないだろうかと結論付けている。
 昭和5060年代に入って黒鯛の越冬の多くは、晩秋になると群れとなってその地方の沖にある深場へと向かって移動して行くらしい事が分かって来た。黒鯛と云う魚は冬眠の出来ない魚なので、腹が空くと時々集団となって岸近くまで餌を採りに来るのだと云う。昭和40年代後半、厳冬の男鹿半島や佐渡島に出かけた庄内の釣り人が、大量のオキアミを使った一泊二日の釣で尺物以上の黒鯛を一人数十枚を釣り上げたと云う伝説的な釣果は、集団で餌を採るために回遊して来た黒鯛の群れに当たれば、その夢のような数が確実に釣れていたと云う現実を良く物語っている。
 このようなバカな釣方を何年も続けていれば、自然界の魚の数は有限であるから、目に見えて減って行くのが当たり前である。がしかし、残念ながらそれを分かろうとしない釣り人が多くいたのも現実であった。50年代に入り急激に釣れなくなった。数釣りが出来ないからと庄内からの釣り人がめっきり少なくなった佐渡島に関東からの釣り人がどっと入って来た。少なくなったと云っても一泊二日の釣行で十枚も釣れれば関東の釣り人達にとっては夢のような話であったと云う。